「日常」という言葉が好きで、「自由」という言葉が少し苦手

僕は二児の父親なのですが、いま現在は子供たちとの騒がしい普段の生活が「日常」です。結婚前はある程度「自由」があり、すぐ外に飲みに行ったり遊びに行ったりしていました。

結婚して子供が生まれると、その新しい状況が「日常」となり、個人的な「自由」がなくなり、人生の主人公が変わったような気になります。「あ~オレ人生の主人公から降りたな」と。

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仲がいいのか悪いのかわからない、ウチの娘と息子。

「日常」が自分の人生

そんな生活が僕の「日常」であり人生なのですが、自分でどうこうならないことが増えて不便というか、いわゆる「自由」はなくなってしまったのかもしれないですね。

それでいいかなと毎日を過ごしているわけです。不自由な毎日が僕の「日常」で、何よりそれが大事なことだと思っています。

「自由」とは何なのか

会社を辞めてフリーランスとして活動を始めた頃。会社・組織から解き放たれた気がして少し「自由」になったつもりでした。それはまやかしなんだなとすぐに気がつきました。仕事がないと生きていけない・食っていけないから。僕のようなアーティストタイプではない人間にとっては「自由」は重いんだなと感じました。

仕事でも「自由にしていいよ」と言われるとどうしていいのかわからない。フリーランスはあくまで所属先がフリーであるだけで、別に「自由」じゃないんだなと。そんなことより精神と仕事を安定させるために、お金が稼げる仕事が必要なんだと。

「自由」は求めるほど「不自由」に

起業家やブロガーの方の中には「自由」をキャッチコピーに幅広く啓蒙する人も多数います。その考え自体はわかるのですが「自由」に甘美なニュアンスを混ぜすぎてしまうと、ちょっと違うのかなと感じてしまいます。

「自由」を求めることが「不自由」になってしまう気がする

「会社に縛られない働きかた」「好きなことを仕事に」めっちゃわかります。理想ですからね。それでも「日常」というのは不自由で理不尽なものですから。

そこから目をそらした「自由」とはいったい何なのか。定義が広すぎる言葉は曖昧さが多くなって苦手です。すごく不自由さを感じます。

何が言いたいのか

特段、タイトル以上の主張はないのですが、たまに外にお酒を飲みに行くと「日常」から「非日常」を感じつつ、明日は子どもを連れて遊びにいこうと思いながら酔って帰ったけどさすがにみんな寝てるので、どうせならもう一杯お酒を飲もうかなと思う、3連休前の金曜日でした。どうでもいい話をだらだらとすみません。

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